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一石五億鳥

一石で五億鳥くらい仕留められれば人生イージーモードだろうな、みたいなことを考えながら書くブログ

量子力学の観点から見る、女子高生がノーパンである可能性について

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街行く制服姿の女子高生たちが靡かせるスカートの中身がノーパンだとしたら、それはそれはとても素晴らしいことだと思いませんか?
僕は思います。

しかしながら常識的に考えて、女子高生の大半(というより全員と言っても差し支えないがないほどに全員)がパンツを履いてますよね。
ここが日本の悪いところです。

だが、そんな程度で女子高生のノーパンを諦めるわけがない僕は、量子力学の観点からノーパンの可能性について追求したいと思います。


不確定性原理

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不確定性原理とは1927年、ドイツの物理学者ハイゼンベルクが提唱した量子力学における基礎原理の一つだ。
この原理について深く掘り下げるつもりはないので最低限の説明をすると、ミクロな領域では粒子の正確な位置と運動量を同時に測定出来ないというものである。

位置を決定すると、その瞬間に運動量は無限大に不正確となる。
運動量を決定すると、その瞬間に位置は無限大に不正確となる。

物事というものは観測するまで正しい形を持っていない。
即ち確立的にしか捕らえることが出来ず、観測してようやく初めて対象の性質を決定し得るのだ。

この様な不確定性関係について、それは「元々決まっていないから」であるとするのがボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈で、これに反対したアインシュタインが「決まっているが人間には分からないだけ」であると唱えたのが隠れた変数理論である。

今回、女子高生のスカートの中がノーパンである可能性を追求するに即して使わせていただくのは、前者であるコペンハーゲン解釈の方だ。


コペンハーゲン解釈を用いたノーパンの可能性

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コペンハーゲン解釈を語るに当たって、一つ触れなければならない思考実験が存在する。
中にはご存知の方も少なくないと思うが、それはシュレーディンガーの猫というものである。

先程、「不確定性原理とは、ミクロな領域では粒子の正確な位置と運動量を同時に測定出来ないというものである」と述べたように、この不確定性原理といったものはあくまで「ミクロな領域」における話である。
このシュレーディンガーの猫という思考実験は、量子力学の確率解釈(コペンハーゲン解釈)を巨視的な実験系に表して、この解釈から得られる結論の異常性を示すという量子力学に対する批判的な攻撃なのである。

例えば、ミクロな領域では位置と運動量を同時に正確には測定出来ないと言われても「そんなはずはない、それはどう考えてもおかしい」と思うことはないはずだ。
しかし、これを「猫が生きている状態」と「猫が死んでいる状態」として考えてみるとどうだろうか。
外部から観測されない箱の中に入れられた猫の生死の確率が同様に50%ずつである状況を想定してみよう。

この場合、観測者である我々は猫の姿を確認出来ないので猫が生きているか死んでいるか分からない。
この時に「猫が生きている状態」と「猫が死んでいる状態」が重なっている(即ち同時に存在している)とするのがコペンハーゲン解釈だ(屡々、シュレーディンガーの猫は「生きているか死んでいるかが分からない状態である」という風に扱われたりするが、「生きていると死んでいるが同時に存在する」が正しい)。

「猫が生きている状態と死んでいる状態が同時に存在する?フザけるな!死んでいるか生きているかのどっちかに決まってるだろ!いい加減にしろ!」

と思いますよね?

しかし、このシュレーディンガーの猫は不確定性原理の「ミクロな領域では〜…」ということを巨視的に観測しただけですよ?

「じゃあ不確定性原理の、その、ミクロな領域ではなんたら、ってのも間違ってるんだろ!!」

そう、そうやって量子力学におけるコペンハーゲン解釈をあり得ないと批判したのがシュレーディンガーの猫です。

この思考実験は、猫を閉ざされた箱の中に毒ガスと共に閉じ込め一定時間後に毒ガスが放出される可能性を50%とすると、その一定時間後に猫は生きているか死んでいるかというものなのですが、このご時世だと思考の上だろうと動物愛護団体から訴えられそうな実験ですよね(詳細な思考実験内容が知りたい方はWikipediaでも見てください)。

シュレーディンガーの猫 - Wikipedia

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女子高生がノーパンである可能性についての記事でしたね。
話を膨らませすぎて、話の終着点を見失ってしまうところでした。

さて、長々と量子力学についての説明をしましたので、代わりと言ってなんですが結論の方はサクッとまとめたいと思います。

要するに最も重要なところは「不確定性原理におけるコペンハーゲン解釈では、観測することにより初めて性質が決定する」という点である。
そして「観測するまであらゆる可能性は重なり合っている」というのも同じくらい重要です(この記事におけるあらゆる可能性とは、大きく「パンツを履いている可能性」と「ノーパンである可能性」との二つに分けられる)。

例えば僕が制服姿の女子高生が歩いていることを視認した時、スカートの中身をしっかりと覗き込むまではその女子高生がパンツを履いている可能性と、ノーパンである可能性が同時に存在しているのだ。
無論、僕はスカート覗きなど言語道断である紳士なので女子高生のスカートの中を観測する可能性は先ずない(が、不慮の突風などによる不可抗力的な観測はこの限りではない)。

つまり、スカートを覗き込まない紳士であることこそが「女子高生がノーパンである可能性」を享受できる人間であるための条件なのだ。

嗚呼、素晴らしき世界。